蕨市の過去からの歴史
奥東京湾の海面下にあった蕨は、やがて地上に姿を現わし、湿地帯を形成しました。その上に荒川の氾濫で運ばれた土砂が堆積して高知がつくられました。
この高地に人間が定住し、開発が進められたのは、平安時代末期のころ言われており、言い伝えには、金子右馬之助家忠の一族が、平安末期の戦時を避けて蕨本村(現在の錦町5丁目付近)に落ちのびてきて、蕨開発の祖となったと伝えています。鎌倉時代に入ると、土豪を中心にある程度の集落ができていたようです。
長禄2年(1458年)古河公方に対抗するため、渋川義鏡(よしかね)が関東探題に任命され、蕨城主になりました。それから間もなく応仁の乱(1467年)が起こり戦国時代に突入、全国各地に戦火が広がっていきました。北条氏の武蔵進出で、その支配下に入った蕨城主は、大永4年(1524年)に扇谷(上杉氏)朝興軍に攻められ、ついに落城しました。永禄7年(1564年)岩槻太田市は世継ぎ問題をきっかけに北条氏の勢力下になり、渋川氏も再び北条氏に属するようになりました。
このように蕨周辺は群雄割拠し、戦国大名の勢力範囲はめまぐるしく変化しており、永禄10年(1567年)蕨城主渋川義基(よしもと)は、北条方の援軍として上総(千葉県の一部)三船山に出陣戦死し、戦いに敗れた家臣たちは、その後、蕨城周辺に帰農し、沼沢地帯の干拓を行い塚越新田を開きました。
天正18年(1590年)徳川家康が関東に入国し、翌19年には三学院に寺領20石を寄進しています。江戸幕府は、封建体制確立のため街道の整備に着手し、各地に宿駅を設置しましたが、蕨宿は慶長17年(1612年)ごろ成立し、中山道の宿駅として発展をとげました。
江戸時代の蕨宿の街並みは南北に約1.1キロメートル続き、この町裏に用水を堀めぐらし、宿の防備や防火に備えました。参勤交代の大名や公家の休息施設である本陣は、蕨宿では、加兵衛家には、老中・水野忠邦や松平加賀守などが休息し、文久元年の皇女和宮降嫁の際には休憩所となり、大政奉還後の明治天皇大宮氷川神社行幸時にも小休所になりました。現在は、蕨本陣跡として公開してます。
明治3年(1870年)石川直中は下蕨に郷学校を開き、近代学校教育の基礎を築きました。明治22年に蕨宿と塚越村が合併して蕨町が誕生して同26年に念願の蕨駅が開設され、町民あげての祝賀会が催されました。第二次大戦後、町村合併が促進され、蕨町、戸田町、美笹村の三町村合併がまとまりかけましたが実現せず、平成の大合併でも川口市、戸田市、蕨市の合併が話しがまとまらず実現できませんでした。